福山城
別名 久松城 葦陽城 |
付近住所 広島県福山市丸之内1-8 | 現在 福山城博物館 |
2009/9/12 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
郡山藩より 水野勝成→ 水野勝俊→ 水野勝貞→ 水野勝種→ 水野勝岑 改易 天領 山形藩より (奥平) 松平忠雅 桑名藩へ 宇都宮藩より 阿部正邦→ 阿部正福→ 阿部正右→ 阿部正倫→ 阿部正精→ 阿部正寧→ 阿部正弘→ 阿部正教→ 阿部正方→ 阿部正桓 |
この城は、元和5年(1619)福島正則の改易により備後10万石の領主として入封した水野勝成が、3年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。 低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。 現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街化しているが、二之丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。 城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。 なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和41年(1966)に、鏡櫓は昭和49年(1974)に、それぞれ外観復原したものである。 阿部正弘像 太平洋の波高く 幕末内外多難の時に際し 老中筆頭として国政を総覧し 近世幕藩体制における鎖国の旧弊を断って日米和親の条約を結び 開国への道を求め近代国家への扉を叩く 阿部正弘は 福山藩阿部家7代の藩主にして 弱冠25歳で閣老に任じ 爾来10有4年 その開明的な政策を推進し 国政を整え もって国外に対応せり 福山藩主としては 庶民の中に人材を登用し 藩政を改革し 教育に明日の世代の形成を托して藩校誠之館を開き 進んで西欧の学術をも取り入れ その後の福山文化の発展に貢献す 市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し 先人の遺徳を偲び明日への躍進を誓う |